在りし日の歌 亡き兒文也の靈に捧ぐ/中原中也
在りし日の歌
含羞
なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ
秋 風白き日の山かげなりき
椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
秋 風白き日の山かげなりき
椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
枝々の 拱みあはすあたりかなしげの
空は死兒等の亡霊にみち まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき
空は死兒等の亡霊にみち まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき
椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
その日 その幹の隙 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
その日 その幹の隙 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
その日 その幹の隙 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
あゝ! 過ぎし日の 仄燃えあざやぐをりをりは
わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……
姉らしき色 きみはありにし
あゝ! 過ぎし日の 仄燃えあざやぐをりをりは
わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……
むなしさ
臘祭の夜の 巷に堕ちて
心臓はも 條網に絡み
脂ぎる 胸乳も露は
よすがなき われは戯女
心臓はも 條網に絡み
脂ぎる 胸乳も露は
よすがなき われは戯女
せつなきに 泣きも得せずて
この日頃 闇を孕めり
遐き空 線條に鳴る
海峡岸 冬の曉風
この日頃 闇を孕めり
遐き空 線條に鳴る
海峡岸 冬の曉風
白薔薇の 造化の花瓣
凍てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集ひ
それらみな ふるのわが友
凍てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集ひ
それらみな ふるのわが友
偏菱形=聚接面そも
胡弓の音 つづきてきこゆ
胡弓の音 つづきてきこゆ
夜更の雨
――ヹルレーヌの面影――
雨は 今宵も 昔 ながらに、
昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
と、見るヹル氏の あの圖體が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。
昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
と、見るヹル氏の あの圖體が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。
倉庫の 間にや 護謨合羽の 反射だ。
それから 泥炭の しみたれた 巫戯けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
拔けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?
それから 泥炭の しみたれた 巫戯けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
拔けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?
自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
あかるい 外燈なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈の 腐つた 眼玉よ、
遐くの 方では 舎密も 鳴つてる。
あかるい 外燈なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒燈の 腐つた 眼玉よ、
遐くの 方では 舎密も 鳴つてる。
早春の風
けふ一日また金の風
大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風
大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風
女王の冠さながらに
卓の前には腰を掛け
かびろき窓にむかひます
卓の前には腰を掛け
かびろき窓にむかひます
外吹く風は金の風
大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風
大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風
枯草の音のかなしくて
煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋ぶ
煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋ぶ
鳶色の土かをるれば
物干竿は空に往き
登る坂道なごめども
物干竿は空に往き
登る坂道なごめども
靑き女の顎かと
岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……
岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……
月
今宵月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる
濟製場の屋根にブラ下つた琵琶は鳴るとしも想へぬ
石炭の匂ひがしたつて怖けるには及ばぬ
灌木がその個性を砥いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!
濟製場の屋根にブラ下つた琵琶は鳴るとしも想へぬ
石炭の匂ひがしたつて怖けるには及ばぬ
灌木がその個性を砥いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!
さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかア
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやらう
ポケットに入れたが気にかゝる、月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる
灌木がその個性を砥いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!
見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかア
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやらう
ポケットに入れたが気にかゝる、月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる
灌木がその個性を砥いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!
青い瞳
1 夏の朝
かなしい心に夜が明けた、
うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
さてもかなしい夜の明けだ!
うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
さてもかなしい夜の明けだ!
青い瞳は動かなかつた、
世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』は過ぎつつあつた、
あゝ、遐い遐いい話。
世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』は過ぎつつあつた、
あゝ、遐い遐いい話。
靑い瞳は動かなかつた、
――いまは動いてゐるかもしれない……
靑い瞳は動かなかつた、
いたいたしくて美しかつた!
――いまは動いてゐるかもしれない……
靑い瞳は動かなかつた、
いたいたしくて美しかつた!
私はいまは此處にゐる、黄色い灯影に。
あれからどうなつたのかしらない……
あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
碧い、噴き出す蒸氣のやうに。
あれからどうなつたのかしらない……
あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
碧い、噴き出す蒸氣のやうに。
2 冬の朝
それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。
あとには残酷な砂礫だの、雑草だの
頬を裂るやうな寒さが残つた。
――こんな殘酷な空寞たる朝にも猶
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其處でもまた
笑ひを澤山湛へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。
陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁まず、
人々は家に歸つて食卓についた。
(飛行機に殘つたのは僕、
バットの空箱を蹴つてみる)
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた。
あとには残酷な砂礫だの、雑草だの
頬を裂るやうな寒さが残つた。
――こんな殘酷な空寞たる朝にも猶
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其處でもまた
笑ひを澤山湛へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。
陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁まず、
人々は家に歸つて食卓についた。
(飛行機に殘つたのは僕、
バットの空箱を蹴つてみる)
三歳の記憶
椽側に陽があたつてて、
樹脂が五彩に眠る時、
柿の木いつぽんある中庭は、
土は枇杷いろ 蠅が唸く。
樹脂が五彩に眠る時、
柿の木いつぽんある中庭は、
土は枇杷いろ 蠅が唸く。
稚厠の上に 抱へられてた、
すると尻から 蛔虫が下がつた。
その蛔虫が、稚厠の淺瀬で動くので
動くので、私は吃驚しちまつた。
すると尻から 蛔虫が下がつた。
その蛔虫が、稚厠の淺瀬で動くので
動くので、私は吃驚しちまつた。
あゝあ、ほんとに怖かつた
なんだか不思議に怖かつた、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やつたんだ。
なんだか不思議に怖かつた、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やつたんだ。
あゝ、怖かつた怖かつた
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
六月の雨
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲のいろの みどりいろ
眼うるめる 面長き女
たちあらはれて 消えてゆく
菖蒲のいろの みどりいろ
眼うるめる 面長き女
たちあらはれて 消えてゆく
たちあらはれて 消えゆけば
うれひに沈み しとしとと
畠の上に 落ちてゐる
はてしもしれず 落ちてゐる
うれひに沈み しとしとと
畠の上に 落ちてゐる
はてしもしれず 落ちてゐる
お太鼓叩いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
お太鼓叩いて 笛吹いて
遊んでゐれば 雨が降る
櫺子の外に 雨が降る
遊んでゐれば 雨が降る
櫺子の外に 雨が降る
雨の日
通りに雨は降りしきり、
家々の腰板古い。
もろもろの愚弄の眼は淑やかとなり、
わたくしは、花瓣の夢をみながら目を覺ます。
家々の腰板古い。
もろもろの愚弄の眼は淑やかとなり、
わたくしは、花瓣の夢をみながら目を覺ます。
*
鳶色の古刀の鞘よ、
舌あまりの幼な友達、
おまへの額は四角張つてた。
わたしはおまへを思ひ出す。
舌あまりの幼な友達、
おまへの額は四角張つてた。
わたしはおまへを思ひ出す。
*
鑢の音よ、だみ声よ、
老い疲れたる胃袋よ、
雨の中にはとほく聞け、
やさしいやさしい唇を。
老い疲れたる胃袋よ、
雨の中にはとほく聞け、
やさしいやさしい唇を。
*
煉瓦の色の憔心の
見え匿れする雨の空。
賢しい少女の黒髪と、
慈父の首と懐かしい……
見え匿れする雨の空。
賢しい少女の黒髪と、
慈父の首と懐かしい……
Where Nakahara Chūya’s words become music.
春
春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲る。
瓦屋根今朝不平がない、
長い校舎から合唱は空にあがる。
その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲る。
瓦屋根今朝不平がない、
長い校舎から合唱は空にあがる。
あゝ、しづかだしづかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸摶つた希望は今日を、
嚴めしい紺靑となつて空から私に降りかゝる。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸摶つた希望は今日を、
嚴めしい紺靑となつて空から私に降りかゝる。
そして私は呆氣てしまふ、バカになつてしまふ
――薮かげの、小川か銀か小波か?
薮かげの小川か銀か小波か?
――薮かげの、小川か銀か小波か?
薮かげの小川か銀か小波か?
大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
一つの鈴をころばしてゐる、
一つの鈴を、ころばして見てゐる。
一つの鈴をころばしてゐる、
一つの鈴を、ころばして見てゐる。
春の日の歌
流よ、淡き 嬌羞よ、
ながれて ゆくか 空の国?
心も とほく 散らかりて、
ヱヂプト煙草 たちまよふ。
ながれて ゆくか 空の国?
心も とほく 散らかりて、
ヱヂプト煙草 たちまよふ。
流よ、冷たき 憂ひ祕め、
ながれて ゆくか 麓までも?
まだみぬ 顔の 不可思議の
咽喉の みえる あたりまで……
ながれて ゆくか 麓までも?
まだみぬ 顔の 不可思議の
咽喉の みえる あたりまで……
午睡の 夢の ふくよかに、
野原の 空の 空のうへ?
うわあ うわあと 涕くなるか
野原の 空の 空のうへ?
うわあ うわあと 涕くなるか
黄色い 納屋や、白の倉、
水車の みえる 彼方まで、
ながれ ながれて ゆくなるか?
水車の みえる 彼方まで、
ながれ ながれて ゆくなるか?
夏の夜
あゝ 疲れた胸の裡を
櫻色の 女が通る
女が通る。
櫻色の 女が通る
女が通る。
夏の夜の水田の滓、
怨恨は氣が遐くなる
――盆地を繞る山は巡るか?
怨恨は氣が遐くなる
――盆地を繞る山は巡るか?
裸足はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧の夜空は 高くて黑い。
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧の夜空は 高くて黑い。
霧の夜空は高くて黑い、
親の慈愛はどうしやうもない、
――疲れた胸の裡を 花瓣が通る。
親の慈愛はどうしやうもない、
――疲れた胸の裡を 花瓣が通る。
疲れた胸の裡を 花瓣が通る
ときどき銅鑼が著物に觸れて。
靄はきれいだけれども、暑い!
ときどき銅鑼が著物に觸れて。
靄はきれいだけれども、暑い!
幼獣の歌
黑い夜草深い野にあつて、
一匹の獸が火消壺の中で
燧石を打つて、星を作つた。
冬を混ぜる 風が鳴つて。
一匹の獸が火消壺の中で
燧石を打つて、星を作つた。
冬を混ぜる 風が鳴つて。
獸はもはや、なんにも見なかつた。
カスタニェットと月光のほか
目覺ますことなき星を抱いて、
壺の中には冒涜を迎へて。
カスタニェットと月光のほか
目覺ますことなき星を抱いて、
壺の中には冒涜を迎へて。
雨後らしく思ひ出は一塊となつて
風と肩を組み、波を打つた。
あゝ なまめかしい物語――
奴隷も王女と美しかれよ。
風と肩を組み、波を打つた。
あゝ なまめかしい物語――
奴隷も王女と美しかれよ。
卵殻もどきの貴公子の微笑と
遲鈍な子供の白血球とは、
それな獸を怖がらす。
遲鈍な子供の白血球とは、
それな獸を怖がらす。
黑い夜草深い野の中で、
一匹の獣の心は燻る。
黒い夜草深い野の中で――
太古は、獨語も美しかつた!……
一匹の獣の心は燻る。
黒い夜草深い野の中で――
太古は、獨語も美しかつた!……
この小兒
コボルト空に往交へば、
野に
蒼白の
この小兒。
野に
蒼白の
この小兒。
黑雲空にすぢ引けば、
この小兒
搾る涙は
銀の液……
この小兒
搾る涙は
銀の液……
地球が二つに割れゝばいい、
そして片方は洋行すればいい、
すれば私はもう片方に腰掛けて
靑空をばかり――
そして片方は洋行すればいい、
すれば私はもう片方に腰掛けて
靑空をばかり――
花崗の嚴や
浜の空
み寺の屋根や
海の果て……
浜の空
み寺の屋根や
海の果て……
冬の日の記憶
晝、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。
夜になつて、急に死んだ。
次の朝は霜が降つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。
その子の兄が電報打ちに行つた。
夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。
父親は、遠洋航海してゐた。
雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。
北風は往還を白くしてゐた。
つるべの音が偶々した時、
父親からの、返電が来た。
父親からの、返電が来た。
毎日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ歸れまい。
遠洋航海からはまだ歸れまい。
その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日學校で叱られた。
電報打つた兄は、今日學校で叱られた。
秋の日
磧づたひの 竝樹の 蔭に
秋は 美し 女の 瞼
泣きも いでなん 空の 潤み
昔の 馬の 蹄の 音よ
秋は 美し 女の 瞼
泣きも いでなん 空の 潤み
昔の 馬の 蹄の 音よ
長の 年月 疲れの ために
國道 いゆけば 秋は 身に沁む
なんでも ないてば なんでも ないに
木履の 音さへ 身に沁みる
國道 いゆけば 秋は 身に沁む
なんでも ないてば なんでも ないに
木履の 音さへ 身に沁みる
陽は今 磧の 半分に 射し
流れを 無形の 筏は とほる
野原は 向ふで 伏せつて ゐるが
流れを 無形の 筏は とほる
野原は 向ふで 伏せつて ゐるが
連れだつ 友の お道化た 調子も
不思議に 空氣に 溶け 込んで
秋は 案じる くちびる 結んで
不思議に 空氣に 溶け 込んで
秋は 案じる くちびる 結んで
冷たい夜
冬の夜に
私の心が悲しんでゐる
悲しんでゐる、わけもなく……
心は錆びて、紫色をしてゐる。
私の心が悲しんでゐる
悲しんでゐる、わけもなく……
心は錆びて、紫色をしてゐる。
丈夫な扉の向ふに、
古い日は放心してゐる。
丘の上では
棉の実が罅裂ける。
古い日は放心してゐる。
丘の上では
棉の実が罅裂ける。
此處では薪が燻つてゐる、
その煙は、自分自らを
知つてでもゐるやうにのぼる。
その煙は、自分自らを
知つてでもゐるやうにのぼる。
誘はれるでもなく
覓めるでもなく、
私の心が燻る……
覓めるでもなく、
私の心が燻る……
冬の明け方
殘んの雪が瓦に少なく固く
枯木の小枝が鹿のやうに睡い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。
枯木の小枝が鹿のやうに睡い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。
烏が啼いて通る――
庭の地面も鹿のやうに睡い。
――林が逃げた農家が逃げた、
空は悲しい衰弱。
私の心は悲しい……
庭の地面も鹿のやうに睡い。
――林が逃げた農家が逃げた、
空は悲しい衰弱。
私の心は悲しい……
やがて薄日が射し
靑空が開く。
上の上の空でジュピター神の砲が鳴る。
――四方の山が沈み、
靑空が開く。
上の上の空でジュピター神の砲が鳴る。
――四方の山が沈み、
農家の庭が欠伸をし、
道は空へと挨拶する。
私の心は悲しい……
道は空へと挨拶する。
私の心は悲しい……
Where Nakahara Chūya’s words become music.
老いたる者をして
――「空しき秋」第十二
老いたる者をして靜謐の裡にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり
吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵に魂を休むればなり
こころゆくまで悔ゆるは洵に魂を休むればなり
あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟も友も、はた見知らざる人々をも忘れて
父も母も兄弟も友も、はた見知らざる人々をも忘れて
東明の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな
はたなびく小旗の如く涕かんかな
或はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……
反歌
あゝ 吾等怯懦のために長き間、いとも長き間
徒なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……
徒なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……
〔空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、諸井
三郎の作曲によりて殘りしものなり。〕
三郎の作曲によりて殘りしものなり。〕
湖上
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂から滴垂る水の音は
昵懇しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切れ間を。
櫂から滴垂る水の音は
昵懇しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切れ間を。
月は聽き耳立てるでせう、
すこしは降りても來るでせう、
われら接唇する時に
月は頭上にあるでせう。
すこしは降りても來るでせう、
われら接唇する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言や、
洩らさず私は聽くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。
よしないことや拗言や、
洩らさず私は聽くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
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冬の夜
みなさん今夜は靜かです
薬鑵の音がしてゐます
僕は女を想つてる
僕には女がないのです
薬鑵の音がしてゐます
僕は女を想つてる
僕には女がないのです
それで苦勞もないのです
えもいはれない彈力の
空気のやうな空想に
女を描いてみてゐるのです
えもいはれない彈力の
空気のやうな空想に
女を描いてみてゐるのです
えもいはれない弾力の
澄み亙つたる夜の沈黙
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みてゐるのです
澄み亙つたる夜の沈黙
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みてゐるのです
かくて夜は更け夜は深まつて
犬のみ覺めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいはれないカクテールです
犬のみ覺めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいはれないカクテールです
2
空氣よりよいものはないのです
それも寒い夜の室内の空氣よりもよいものはないのです
煙よりよいものはないのです
煙より 愉快なものもないのです
やがてはそれがお分りなのです
同感なさる時が 來るのです
それも寒い夜の室内の空氣よりもよいものはないのです
煙よりよいものはないのです
煙より 愉快なものもないのです
やがてはそれがお分りなのです
同感なさる時が 來るのです
空氣よりよいものはないのです
寒い夜の痩せた年增女の手のやうな
その手の彈力のやうな やはらかい またかたい
かたいやうな その手の弾力のやうな
煙のやうな その女の情熱のやうな
炎えるやうな 消えるやうな
寒い夜の痩せた年增女の手のやうな
その手の彈力のやうな やはらかい またかたい
かたいやうな その手の弾力のやうな
煙のやうな その女の情熱のやうな
炎えるやうな 消えるやうな
冬の夜の室内の 空氣よりよいものはないのです
秋の消息
麻は朝、人の肌に追い縋り
雀らの、聲も硬うはなりました
煙突の、煙は風に亂れ散り
雀らの、聲も硬うはなりました
煙突の、煙は風に亂れ散り
火山灰掘れば氷のある如く
けざやけき顥氣の底に靑空は
冷たく沈み、しみじみと
けざやけき顥氣の底に靑空は
冷たく沈み、しみじみと
教會堂の石段に
日向ぼつこをしてあれば
陽光に廻る花々や
物蔭に、すずろすだける虫の音や
日向ぼつこをしてあれば
陽光に廻る花々や
物蔭に、すずろすだける虫の音や
秋の日は、からだに暖か
手や足に、ひえびえとして
此の日頃、廣告氣球は新宿の
空に揚りて漂へり
手や足に、ひえびえとして
此の日頃、廣告氣球は新宿の
空に揚りて漂へり
骨
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦勞にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖。
生きてゐた時の苦勞にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖。
それは光澤もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。
生きてゐた時に、
これが食堂の雜踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑しい。
これが食堂の雜踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑しい。
ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
靈魂はあとに殘つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
靈魂はあとに殘つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?
故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、――僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、――僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。
秋日狂乱
僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳だ
おまけにそれを嘆きもしない
僕はいよいよの無一物だ
僕は空手空拳だ
おまけにそれを嘆きもしない
僕はいよいよの無一物だ
それにしても今日は好いお天氣で
さつきから澤山の飛行機が飛んでゐる
――歐羅巴は戰爭を起すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか
さつきから澤山の飛行機が飛んでゐる
――歐羅巴は戰爭を起すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか
今日はほんとに好いお天氣で
空の靑も淚にうるんでゐる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
子供等は先刻昇天した
空の靑も淚にうるんでゐる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
子供等は先刻昇天した
もはや地上には日向ぼつこをしてゐる
月給取の妻君とデーデー屋さん以外にゐない
デーデー屋さんの叩く鼓の音が
明るい廢墟を唯獨りで讃美し𢌞つてゐる
月給取の妻君とデーデー屋さん以外にゐない
デーデー屋さんの叩く鼓の音が
明るい廢墟を唯獨りで讃美し𢌞つてゐる
あゝ、誰か來て僕を助けて呉れ
ヂオゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが
けふびは雀も啼いてはをらぬ
地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡い!
ヂオゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが
けふびは雀も啼いてはをらぬ
地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡い!
――さるにても田舎のお嬢さんは何處に去つたか
その紫の押花はもうにじまないのか
草の上には陽は照らぬのか
昇天の幻想だにもはやないのか?
その紫の押花はもうにじまないのか
草の上には陽は照らぬのか
昇天の幻想だにもはやないのか?
僕は何を云つてゐるのか
如何なる錯亂に掠められてゐるのか
蝶々はどつちへとんでいつたか
今は春でなくて、秋であつたか
如何なる錯亂に掠められてゐるのか
蝶々はどつちへとんでいつたか
今は春でなくて、秋であつたか
ではあゝ、濃いシロップでも飲まう
冷たくして、太いストローで飲まう
とろとろと、脇見もしないで飲まう
何にも、何にも、求めまい!……
冷たくして、太いストローで飲まう
とろとろと、脇見もしないで飲まう
何にも、何にも、求めまい!……
朝鮮女
朝鮮女の服の紐
秋の風にや縒れたらん
街道を往くをりをりは
子供の手をば無理に引き
額顰めし汝が面ぞ
肌赤銅の乾物にて
なにを思へるその顏ぞ
――まことやわれもうらぶれし
こころに呆け見ゐたりけむ
われを打見ていぶかりて
子供うながし去りゆけり……
輕く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや
輕く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや……
…………………
秋の風にや縒れたらん
街道を往くをりをりは
子供の手をば無理に引き
額顰めし汝が面ぞ
肌赤銅の乾物にて
なにを思へるその顏ぞ
――まことやわれもうらぶれし
こころに呆け見ゐたりけむ
われを打見ていぶかりて
子供うながし去りゆけり……
輕く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや
輕く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや……
…………………
夏の夜に覚めてみた夢
眠らうとして目をば閉ぢると
眞ッ暗なグランドの上に
その日晝みた野球のナインの
ユニホームばかりほのかに白く――
眞ッ暗なグランドの上に
その日晝みた野球のナインの
ユニホームばかりほのかに白く――
ナインは各々守備位置にあり
狡さうなピッチャは相も變らず
お調子者のセカンドは
相も變らぬお調子ぶりの
狡さうなピッチャは相も變らず
お調子者のセカンドは
相も變らぬお調子ぶりの
扨、待つてゐるヒットは出なく
やれやれと思つてゐると
ナインも打者も悉く消え
人ッ子一人ゐはしないグランドは
やれやれと思つてゐると
ナインも打者も悉く消え
人ッ子一人ゐはしないグランドは
忽ち暑い真晝のグランド
グランド繞るポプラ竝木は
蒼々として葉をひるがへし
ひときはつづく蝉しぐれ
やれやれと思つてゐるうち……眠た
グランド繞るポプラ竝木は
蒼々として葉をひるがへし
ひときはつづく蝉しぐれ
やれやれと思つてゐるうち……眠た
春と赤ン坊
菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?
いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど
走つてゆくのは、自轉車々々々
向ふの道を、走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……
向ふの道を、走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……
薄桃色の、風を切つて
走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲
――赤ン坊を畑に置いて
走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲
――赤ン坊を畑に置いて
雲雀
ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ
あゝ 電線だ、電線だ
ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ
碧い 碧い空の中
ぐるぐるぐると 潜もぐりこみ
ピーチクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ
ぐるぐるぐると 潜もぐりこみ
ピーチクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ
歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あーをい あーをい空の下
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あーをい あーをい空の下
眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?
初夏の夜
また今年も夏が来て、
夜は、蒸氣で出来た白熊が、
沼をわたつてやつてくる。
――色々のことがあつたんです。
色々のことをして来たものです。
嬉しいことも、あつたのですが、
回想されては、すべてがかなしい
鐵製の、軋音さながら
なべては夕暮迫るけはひに
幼年も、老年も、靑年も壮年も、
共々に餘りに可憐な聲をばあげて、
薄暮の中で舞ふ蛾の下で
はかなくも可憐な顎をしてゐるのです。
されば今夜六月の良夜なりとはいへ、
遠いい物音が、心地よく風に送られて來るとはいへ、
なにがなし悲しい思ひであるのは、
消えたばかしの鐵橋の響音、
大河の、その鐵橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。
夜は、蒸氣で出来た白熊が、
沼をわたつてやつてくる。
――色々のことがあつたんです。
色々のことをして来たものです。
嬉しいことも、あつたのですが、
回想されては、すべてがかなしい
鐵製の、軋音さながら
なべては夕暮迫るけはひに
幼年も、老年も、靑年も壮年も、
共々に餘りに可憐な聲をばあげて、
薄暮の中で舞ふ蛾の下で
はかなくも可憐な顎をしてゐるのです。
されば今夜六月の良夜なりとはいへ、
遠いい物音が、心地よく風に送られて來るとはいへ、
なにがなし悲しい思ひであるのは、
消えたばかしの鐵橋の響音、
大河の、その鐵橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。
北の海
海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
曇つた北海の空の下、
浪はところどころ齒をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。
浪はところどころ齒をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。
海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
頑是ない歌
思へば遠く來たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯氣は今いづこ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯氣は今いづこ
雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にゐた
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にゐた
それから何年經つたことか
汽笛の湯氣を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ
汽笛の湯氣を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ
今では女房子供持ち
思へば遠く來たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
思へば遠く來たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
生きてゆくのであらうけど
遠く經て來た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ
遠く經て來た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ
さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ
結局我ン張る僕の性質
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ
考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう
考へてみれば簡単だ
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと
思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯氣や今いづこ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯氣や今いづこ
Where Nakahara Chūya’s words become music.
閑寂
なんにも訪ふことのない、
私の心は閑寂だ。
それは日曜日の渡り廊下、
――みんなは野原へ行つちやつた。
私の心は閑寂だ。
それは日曜日の渡り廊下、
――みんなは野原へ行つちやつた。
板は冷たい光澤をもち、
小鳥は庭に啼いてゐる。
締めの足りない水道の、
蛇口の滴は、つと光り!
小鳥は庭に啼いてゐる。
締めの足りない水道の、
蛇口の滴は、つと光り!
土は薔薇色、空には雲雀
空はきれいな四月です。
なんにも訪ふことのない、
私の心は閑寂だ。
空はきれいな四月です。
なんにも訪ふことのない、
私の心は閑寂だ。
お道化うた
月の光のそのことを、
盲目少女に敎へたは、
ベートーヹンか、シューバート?
俺の記憶の錯覺が、
今夜とちれてゐるけれど、
ベトちやんだとは思ふけど、
シュバちやんではなかつたらうか?
盲目少女に敎へたは、
ベートーヹンか、シューバート?
俺の記憶の錯覺が、
今夜とちれてゐるけれど、
ベトちやんだとは思ふけど、
シュバちやんではなかつたらうか?
霧の降つたる秋の夜に、
庭・石段に腰掛けて、
月の光を浴びながら、
二人、默つてゐたけれど、
やがてピアノの部屋に入り、
泣かんばかりに彈き出した、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
庭・石段に腰掛けて、
月の光を浴びながら、
二人、默つてゐたけれど、
やがてピアノの部屋に入り、
泣かんばかりに彈き出した、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
かすむ街の灯とほに見て、
ウヰンの市の郊外に、
星も降るよなその夜さ一と夜、
蟲、草叢にすだく頃、
敎師の息子の十三番目、
頸の短いあの男、
盲目少女の手をとるやうに、
ピアノの上に勢ひ込んだ、
汗の出さうなその額、
安物くさいその眼鏡、
丸い背中もいぢらしく
吐き出すやうに彈いたのは、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
ウヰンの市の郊外に、
星も降るよなその夜さ一と夜、
蟲、草叢にすだく頃、
敎師の息子の十三番目、
頸の短いあの男、
盲目少女の手をとるやうに、
ピアノの上に勢ひ込んだ、
汗の出さうなその額、
安物くさいその眼鏡、
丸い背中もいぢらしく
吐き出すやうに彈いたのは、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?
シュバちやんかベトちやんか、
そんなこと、いざ知らね、
今宵星降る東京の夜、
ビールのコップを傾けて、
月の光を見てあれば、
そんなこと、いざ知らね、
今宵星降る東京の夜、
ビールのコップを傾けて、
月の光を見てあれば、
ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、
はやとほに死んだことさへ、
誰知らうことわりもない……
はやとほに死んだことさへ、
誰知らうことわりもない……
思ひ出
お天氣の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天氣の日の、海の沖は
まるで、金や、銀ではないか
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天氣の日の、海の沖は
まるで、金や、銀ではないか
金や銀の沖の波に、
ひかれひかれて、岬の端に
やつて来たれど金や銀は
なほもとほのき、沖で光つた。
ひかれひかれて、岬の端に
やつて来たれど金や銀は
なほもとほのき、沖で光つた。
岬の端には煉瓦工場が、
工場の庭には煉瓦干されて、
煉瓦干されて赫々してゐた
しかも工場は、音とてなかつた
工場の庭には煉瓦干されて、
煉瓦干されて赫々してゐた
しかも工場は、音とてなかつた
煉瓦工場に、腰を据ゑて、
私は暫く煙草を吹かした。
煙草吹かしてぼんやりしてると、
沖の方では波が鳴つてた。
私は暫く煙草を吹かした。
煙草吹かしてぼんやりしてると、
沖の方では波が鳴つてた。
沖の方では波が鳴らうと、
私はかまはずぼんやりしてゐた。
ぼんやりしてると頭も胸も
ポカポカポカポカ暖かだつた
私はかまはずぼんやりしてゐた。
ぼんやりしてると頭も胸も
ポカポカポカポカ暖かだつた
ポカポカポカポカ暖かだつたよ
岬の工場は春の陽をうけ、
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼いてた
岬の工場は春の陽をうけ、
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼いてた
鳥が啼いても煉瓦工場は、
ビクともしないでジッとしてゐた
鳥が啼いても煉瓦工場の、
窓の硝子は陽をうけてゐた
ビクともしないでジッとしてゐた
鳥が啼いても煉瓦工場の、
窓の硝子は陽をうけてゐた
窓の硝子は陽をうけてても
ちつとも暖かさうではなかつた
春のはじめのお天気の日の
岬の端の煉瓦工場よ!
ちつとも暖かさうではなかつた
春のはじめのお天気の日の
岬の端の煉瓦工場よ!
*
煉瓦工場は、その後廢れて、
煉瓦工場は、死んでしまつた
煉瓦工場の、窓も硝子も、
今は毀れてゐようといふもの
煉瓦工場は、死んでしまつた
煉瓦工場の、窓も硝子も、
今は毀れてゐようといふもの
煉瓦工場は、廢れて枯れて、
木立の前に、今もぼんやり
木立に鳥は、今も啼くけど
煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
木立の前に、今もぼんやり
木立に鳥は、今も啼くけど
煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
沖の波は、今も鳴るけど
庭の土には、陽が照るけれど
煉瓦工場に、人夫は來ない
煉瓦工場に、僕も行かない
庭の土には、陽が照るけれど
煉瓦工場に、人夫は來ない
煉瓦工場に、僕も行かない
嘗て煙を、吐いてた煙突も、
今はぶきみに、たゞ立つてゐる
雨の降る日は、殊にもぶきみ
晴れた日だとて、相当ぶきみ
今はぶきみに、たゞ立つてゐる
雨の降る日は、殊にもぶきみ
晴れた日だとて、相当ぶきみ
相當ぶきみな、煙突でさへ
今ぢやどうさへ、手出しも出来ず
この尨大な、古强者が
時々恨む、その眼は怖い
今ぢやどうさへ、手出しも出来ず
この尨大な、古强者が
時々恨む、その眼は怖い
その眼は怖くて、今日も僕は
浜へ出て来て、石に腰掛け
ぼんやり俯き、案じてゐれば
僕の胸さへ、波を打つのだ
浜へ出て来て、石に腰掛け
ぼんやり俯き、案じてゐれば
僕の胸さへ、波を打つのだ
殘暑
疊の上に、寢ころばう、
蠅はブンブン 唸つてる
疊ももはや 黄色くなつたと
今朝がた 誰かが云つてゐたつけ
蠅はブンブン 唸つてる
疊ももはや 黄色くなつたと
今朝がた 誰かが云つてゐたつけ
それやこれやと とりとめもなく
僕の頭に 記憶は浮かび
浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち
いつしか 僕は眠つてゐたのだ
僕の頭に 記憶は浮かび
浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち
いつしか 僕は眠つてゐたのだ
覺めたのは 夕方ちかく
まだかなかなは 啼いてたけれど
樹々の梢は 陽を受けてたけど、
僕は庭木に 打水やつた
まだかなかなは 啼いてたけれど
樹々の梢は 陽を受けてたけど、
僕は庭木に 打水やつた
打水が、樹々の下枝の葉の尖に
光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた
光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた
除夜の鐘
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千萬年も、古びた夜の空氣を顫はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千萬年も、古びた夜の空氣を顫はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
それは寺院の森の霧つた空……
そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて來る。
それは寺院の森の霧つた空……
そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて來る。
それは寺院の森の霧つた空……
その時子供は父母の膝下で蕎麥を食うべ、
その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出、
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。
その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出、
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。
その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
その時銀座はいつぱいの人出、淺草もいつぱいの人出。
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千萬年も、古びた夜の空氣を顫はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千萬年も、古びた夜の空氣を顫はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
雪の賦
雪が降るとこのわたしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾の頃にも降つた……
大高源吾の頃にも降つた……
幾多々々の孤兒の手は、
そのためにかじかんで、
都會の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。
そのためにかじかんで、
都會の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。
ロシアの田舎の別莊の、
矢來の彼方に見る雪は、
うんざりする程永遠で、
矢來の彼方に見る雪は、
うんざりする程永遠で、
雪の降る日は高貴の夫人も、
ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……
ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……
雪が降るとこのわたしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。
わが半生
私は随分苦勞して來た。
それがどうした苦勞であつたか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦勞が果して價値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。
それがどうした苦勞であつたか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦勞が果して價値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。
とにかく私は苦勞して來た。
苦勞して來たことであつた!
そして、今、此處、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出來ないのだ。
苦勞して來たことであつた!
そして、今、此處、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出來ないのだ。
外では今宵、木の葉がそよぐ。
はるかな氣持の、春の宵だ。
そして私は、靜かに死ぬる、
坐つたまんまで、死んでゆくのだ。
はるかな氣持の、春の宵だ。
そして私は、靜かに死ぬる、
坐つたまんまで、死んでゆくのだ。
獨身者
石鹼箱には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた
――彼は獨身者であつた
彼は極度の近眼であつた
彼はよそゆきを普段に着てゐた
判屋奉公したこともあつた
彼は極度の近眼であつた
彼はよそゆきを普段に着てゐた
判屋奉公したこともあつた
今しも彼が湯屋から出て來る
薄日の射してる午後の三時
石鹼箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた
薄日の射してる午後の三時
石鹼箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた
春宵感懐
雨が、あがつて、風が吹く。
雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
なまあつたかい、風が吹く。
雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
なまあつたかい、風が吹く。
なんだか、深い、溜息が、
なんだかはるかな、幻想が、
湧くけど、それは、摑めない。
誰にも、それは、語れない。
なんだかはるかな、幻想が、
湧くけど、それは、摑めない。
誰にも、それは、語れない。
誰にも、それは、語れない
ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢやないですか、
けれども、それは、示かせない……
ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢやないですか、
けれども、それは、示かせない……
かくて、人間、ひとりびとり、
こころで感じて、顏見合せれば
につこり笑ふといふほどの
ことして、一生、過ぎるんですねえ
こころで感じて、顏見合せれば
につこり笑ふといふほどの
ことして、一生、過ぎるんですねえ
雨が、あがつて、風が吹く。
雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
なまあつたかい、風が吹く。
雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
なまあつたかい、風が吹く。
曇天
ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
黒い 旗が はためくを 見た。
はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
手繰り 下ろさうと 僕は したが、
綱も なければ それも 叶はず、
旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥處に 舞ひ入る 如く。
綱も なければ それも 叶はず、
旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥處に 舞ひ入る 如く。
かかる 朝を 少年の 日も、
屡々 見たりと 僕は 憶ふ。
かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都會の 甍の 上に。
屡々 見たりと 僕は 憶ふ。
かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都會の 甍の 上に。
かの時 この時 時は 隔つれ、
此處と 彼處と 所は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝らぬ かの 黑旗よ。
此處と 彼處と 所は 異れ、
はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝らぬ かの 黑旗よ。
蜻蛉に寄す
あんまり晴れてる 秋の空
赤い蜻蛉が 飛んでゐる
淡い夕陽を 浴びながら
僕は野原に 立つてゐる
赤い蜻蛉が 飛んでゐる
淡い夕陽を 浴びながら
僕は野原に 立つてゐる
遠くに工場の 煙突が
夕陽にかすんで みえてゐる
大きな溜息 一つついて
僕は蹲んで 石を拾ふ
夕陽にかすんで みえてゐる
大きな溜息 一つついて
僕は蹲んで 石を拾ふ
その石くれの 冷たさが
漸く手中で ぬくもると
僕は放して 今度は草を
夕陽を浴びてる 草を抜く
漸く手中で ぬくもると
僕は放して 今度は草を
夕陽を浴びてる 草を抜く
拔かれた草は 土の上で
ほのかほのかに 萎えてゆく
遠くに工場の 煙突は
夕陽に霞んで みえてゐる
ほのかほのかに 萎えてゆく
遠くに工場の 煙突は
夕陽に霞んで みえてゐる
自覚と葛藤に生きた、若き詩人の奇跡と作品
夭折の天才詩人 中原中也(宝島社)
――秘蔵資料で探る、30年の生涯
永訣の秋
ゆきてかへらぬ
――京都――
僕は此の世の果てにゐた。陽は溫暖に降り洒ぎ、風は花々搖つてゐた。
木橋の、埃りは終日、沈默し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の緣者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空氣の中には蜜があり、物體ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。
煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
さてわが親しき所有品は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布團ときたらば影だになく、齒刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、會ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで澤山だつた。
名狀しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
*
林の中には、世にも不思議な公園があつて、不氣味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛の巢が光り輝いてゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛の巢が光り輝いてゐた。
一つのメルヘン
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個體の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。
非常な個體の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
Where Nakahara Chūya’s words become music.
幻影
私の頭の中には、いつの頃からか、
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。
薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、
それは、紗の服なんかを着込んで、
そして、月光を浴びてゐるのでした。
ともすると、弱々しげな手付をして、
しきりと 手眞似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。
しきりと 手眞似をするのでしたが、
その意味が、つひぞ通じたためしはなく、
あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。
手眞似につれては、唇も動かしてゐるのでしたが、
古い影繪でも見てゐるやう――
音はちつともしないのですし、
何を云つてるのかは 分りませんでした。
古い影繪でも見てゐるやう――
音はちつともしないのですし、
何を云つてるのかは 分りませんでした。
しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、
眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。
あばずれ女の亭主が歌つた
おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。
おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつていることのやう。
おれを憎んだためしはない。
おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつていることのやう。
そして二人の魂は、不識に溫和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。
もう長年の習慣だ。
それなのにまた二人には、
ひどく浮氣な心があつて、
ひどく浮氣な心があつて、
いちばん自然な愛の氣持を、
時にうるさく思ふのだ。
時にうるさく思ふのだ。
佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。
時にいちばん憎みあふ。
そしてあとでは得態の知れない
悔の氣持に浸るのだ。
悔の氣持に浸るのだ。
あゝ、二人には浮氣があつて、
それが眞實を見えなくしちまふ。
それが眞實を見えなくしちまふ。
佳い香水のかをりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。
言葉なき歌
あれはとほいい處にあるのだけれど
おれは此處で待つてゐなくてはならない
此處は空氣もかすかで蒼く
葱の根のやうに仄かに淡い
おれは此處で待つてゐなくてはならない
此處は空氣もかすかで蒼く
葱の根のやうに仄かに淡い
決して急いではならない
此處で十分待つてゐなければならない
處女の眼のやうに遙かを見遣つてはならない
たしかに此處で待つてゐればよい
此處で十分待つてゐなければならない
處女の眼のやうに遙かを見遣つてはならない
たしかに此處で待つてゐればよい
それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた
号笛の音のやうに太くて纖弱だつた
けれどもその方へ驅け出してはならない
たしかに此處で待つてゐなければならない
号笛の音のやうに太くて纖弱だつた
けれどもその方へ驅け出してはならない
たしかに此處で待つてゐなければならない
さうすればそのうち喘ぎも平靜に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜の空にたなびいてゐた
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜の空にたなびいてゐた
月夜の濱邊
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。
指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
どうしてそれが、捨てられようか?
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また來ん春……
また來ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が來たつて何になろ
あの子が返つて來るぢやない
しかし私は辛いのだ
春が來たつて何になろ
あの子が返つて來るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫といひ
鳥を見せても猫だつた
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫といひ
鳥を見せても猫だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
月の光 その一
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
お庭の隅の草叢に
隠れてゐるのは死んだ児だ
隠れてゐるのは死んだ児だ
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
おや、チルシスとアマントが
芝生の上に出て来てる
芝生の上に出て来てる
ギタアを持つては來てゐるが
おつぽり出してあるばかり
おつぽり出してあるばかり
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた
月の光 その二
おゝチルシスとアマントが
庭に出て來て遊んでる
庭に出て來て遊んでる
ほんに今夜は春の宵
なまあつたかい靄もある
なまあつたかい靄もある
月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる
庭のベンチの上にゐる
ギタアがそばにはあるけれど
いつかう彈き出しさうもない
いつかう彈き出しさうもない
芝生のむかふは森でして
とても黑々してゐます
とても黑々してゐます
おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間
こそこそ話してゐる間
森の中では死んだ子が
螢のやうに蹲んでる
螢のやうに蹲んでる
村の時計
村の大きな時計は、
ひねもす動いてゐた
ひねもす動いてゐた
その字板のペンキは
もう艶が消えてゐた
もう艶が消えてゐた
近寄つてみると、
小さなひびが澤山にあるのだつた
小さなひびが澤山にあるのだつた
それで夕陽が當つてさへが、
おとなしい色をしてゐた
おとなしい色をしてゐた
時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた
ぜいぜいと鳴つた
字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた
僕にも誰にも分らなかつた
或る男の肖像
1
洋行歸りのその洒落者は、
齡をとつても髪に綠の油をつけてた。
齡をとつても髪に綠の油をつけてた。
夜毎喫茶店にあらはれて、
其處の主人と話してゐる様はあはれげであつた。
其處の主人と話してゐる様はあはれげであつた。
死んだと聞いてはいつそうあはれであつた。
2
――幻滅は鋼のいろ。
――幻滅は鋼のいろ。
髪毛の艶と、ラムプの金との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。
剃りたての、頚條も手頸も
どこもかしこもそはそはと、 寒かつた。
どこもかしこもそはそはと、 寒かつた。
開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。
讀書も、しむみりした戀も、
暖かいお茶も黄昏の空とともに
風とともにもう其處にはなかつた。
暖かいお茶も黄昏の空とともに
風とともにもう其處にはなかつた。
3
彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は獨り、
部屋で卓子を拭いてゐた。
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は獨り、
部屋で卓子を拭いてゐた。
冬の長門峡
長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌みてありぬ。
酒酌みてありぬ。
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
客とてもなかりけり。
水は、恰も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
流れ流れてありにけり。
やがても密柑の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。
欄干にこぼれたり。
あゝ! ――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。
寒い寒い 日なりき。
米子
二十八歳のその處女は、
肺病やみで、腓は細かつた。
ポプラのやうに、人も通らぬ
歩道に沿つて、立つてゐた。
肺病やみで、腓は細かつた。
ポプラのやうに、人も通らぬ
歩道に沿つて、立つてゐた。
處女の名前は、米子と云つた。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであつた。
――かぼそい聲をしてをつた。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであつた。
――かぼそい聲をしてをつた。
二十八歳のその處女は、
お嫁に行けば、その病氣は
癒るかに思はれた。と、さう思ひながら
私はたびたび處女をみた……
お嫁に行けば、その病氣は
癒るかに思はれた。と、さう思ひながら
私はたびたび處女をみた……
しかし一度も、さうと口には出さなかつた。
別に、云ひ出しにくいからといふのでもない
云つて却つて、落膽させてはと思つたからでもない、
なぜかしら、云はずじまひであつたのだ。
別に、云ひ出しにくいからといふのでもない
云つて却つて、落膽させてはと思つたからでもない、
なぜかしら、云はずじまひであつたのだ。
二十八歳のその處女は、
歩道に沿つて立つてゐた、
雨あがりの午後、ポプラのやうに。
――かぼそい聲をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……
歩道に沿つて立つてゐた、
雨あがりの午後、ポプラのやうに。
――かぼそい聲をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……
正午
丸ビル風景
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが櫻かな、櫻かな櫻かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが櫻かな、櫻かな櫻かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黑い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
春日狂想
1
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、
なほもながらふことともなつたら、
奉仕の氣持に、なることなんです。
奉仕の氣持に、なることなんです。
奉仕の氣持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の氣持に、ならなけあならない。
奉仕の氣持に、ならなけあならない。
奉仕の氣持に、ならなけあならない。
2
奉仕の氣持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。
さて格別の、ことも出来ない。
そこで以前より、本なら熟讀。
そこで以前より、人には丁寧。
そこで以前より、人には丁寧。
テムポ正しき散歩をなして
麥稈眞田を敬虔に編み――
麥稈眞田を敬虔に編み――
まるでこれでは、玩具の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。
まるでこれでは、毎日、日曜。
神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇へば、につこり致し、
知人に遇へば、につこり致し、
飴賣爺々と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、
まぶしくなつたら、日蔭に這入り、
そこで地面や草木を見直す。
そこで地面や草木を見直す。
苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。
いはうやうなき、今日の麗日。
參詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。
わたしは、なんにも腹が立たない。
⦅まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。⦆
ゴム風船の、美しさかな。⦆
空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。
やあ、今日は、御機嫌いかが。
久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何處かで、お茶でも飲みましよ。
そこらの何處かで、お茶でも飲みましよ。
勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。
ところで話は、とかくないもの。
煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名狀しがたい覺悟をなして、――
名狀しがたい覺悟をなして、――
戸外はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、
外國に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。
馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。
まことに人生、花嫁御寮。
まぶしく、美しく、はた俯いて、
話をさせたら、でもうんざりか?
話をさせたら、でもうんざりか?
それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。
まことに、人生、花嫁御寮。
3
ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。
つまり、我等に缺けてるものは、
實直なんぞと、心得まして。
實直なんぞと、心得まして。
ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。
テムポ正しく、握手をしませう。
蛙聲
天は地を蓋ひ、
そして、地には偶々池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?
そして、地には偶々池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?
その聲は、空より來り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙聲は水面に走る。
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙聲は水面に走る。
よし此の地方が濕潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、餘りに乾いたものと感はれ、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、餘りに乾いたものと感はれ、
頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が來れば蛙は鳴き、
その聲は水面に走つて暗雲に迫る。
さて、それなのに夜が來れば蛙は鳴き、
その聲は水面に走つて暗雲に迫る。
後記
茲に収めたのは、『山羊の歌』以後に發表したものの過半數である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。
詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出來れば、私の詩生活も旣に二十三年を經た。もし詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、十五年間の詩生活である。
長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確實に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも云つておきたい。
私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計畫があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。
扨、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
さらば東京! おゝわが青春!
〔一九三七・九・二三〕


