山羊の歌
初期詩篇
春の日の夕暮
春の日の夕暮は穩かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は靜かです
馬嘶くか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
從順なのは 春の日の夕暮か
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自らの靜脈管の中へです
草稿
春の夕暮
あゝ、案山子はなきか
月
養父の疑惑に瞳を睜る。
秒刻は銀波を砂漠に流し
老男の耳朶は螢光をともす。
胸に殘つた戰車の地音
銹びつく鑵の煙草とりいで
月は懶く喫つてゐる。
趾頭舞踊しつづけてゐるが、
汚辱に浸る月の心に
遠にちらばる星と星よ!
おまへの劊手を月は待つてゐる
「生活者」1929年9月號
七人の天女はそれのめぐりを
趾頭舞踊しつづけてゐるが
汚辱に浸る月の心には
サーカス
茶色い戦争ありました
冬は疾風吹きました
今夜此処での一と殷盛り
今夜此処での一と殷盛り
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
安値いリボンと息を吐き
咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
夜は劫々と更けまする
落下傘奴のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
「生活者」1929年10月號
無題
二回目の『今夜此処での一と殷盛り』の詩句は次の詩節にまわる
それの近くの白い灯が・安値いリボンと息を吐き この詩節は次の詩節と一詩節
屋外 眞ッ闇 闇の闇
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春の夜
一枝の花、桃色の花。
庭の土面は附黑子。
樹々よはにかみ立ちまはれ。
希望はあらず、さてはまた、懴悔もあらず。
夢の裡なる隊商のその足竝もほのみゆれ。
砂の色せる絹衣。
祖先はあらず、親も消ぬ。
蕃紅花色に湧きいづる
春の夜や。
朝の歌
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍樂の憶ひ
手にてなす なにごともなし。
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諌めする なにものもなし。
うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
臨終
黑馬の瞳のひかり
水涸れて落つる百合花
あゝ こころうつろなるかな
窓近く婦の逝きぬ
白き空盲ひてありて
白き風冷たくありぬ
その腕の優しくありぬ
朝の日は濡れてありぬ
水の音したたりてゐぬ
子等の聲もつれてありぬ
しかはあれ この魂はいかにとなるか?
うすらぎて 空となるか?
都會の夏の夜
街角に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱ひながらに歸つてゆく。
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になつて、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。
忘れてゐるといふではないが、
都會の夏の夜の更――
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。
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秋の一日
戸にあたる風と轍との音によつて、
サイレンの棲む海に溺れる。
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩のかなたの地平の目の色。
秋は錫と廣場と天鼓のほかのなんにも知らない。
軟體動物のしやがれ聲にも氣をとめないで、
紫の蹲んだ影して公園で、乳兒は口に砂を入れる。
躁ぐ少女と嘲笑ふヤンキイは
いやだ いやだ!)
路次を拔け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑をでも探して來よう。
黄昏
寄り合つた蓮の葉が搖れる。
蓮の葉は、圖太いので
こそこそとしか音をたてない。
目が薄明るい地平線を逐ふ……
黑々と山がのぞきかかるばつかりだ
――失はれたものはかへつて來ない。
草の根の匂ひが靜かに鼻にくる、
畑の土が石といつしよに私を見てゐる。
ぢいつと茫然黄昏の中に立つて、
なんだか父親の映像が氣になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです
深夜の思ひ
乾きゆく
急速な――頑ぜない女の兒の泣聲だ、
鞄屋の女房の夕の鼻汁だ。
擦れた母親。
虫の飛交ふ梢のあたり、
舐子のお道化た踊り。
獵師は猫背を向ふに運ぶ。
森を控へた草地が
坂になる!
ヴェールを風に千々にされながら。
彼女の肉は跳び込まねばならぬ、
嚴しき神の父なる海に!
精靈が怪しげなる條を描く。
彼女の思ひ出は悲しい書齋の取片附け
彼女は直きに死なねばならぬ。
冬の雨の夜
どしやぶりの雨が降つてゐた。
――夕明下に投げいだされた、萎れ大根の陰惨さ、
あれはまだしも結構だつた――
今や黑い冬の夜をこめ
どしやぶりの雨が降つてゐる。
亡き乙女達の聲さへがして
aé ao, aé ao, éo, aéo éo!
その雨の中を漂ひながら
いつだか消えてなくなつた、あの乳白の脬嚢たち……
今や黑い冬の夜をこめ
どしやぶりの雨が降つてゐて、
わが母上の帶締めも
雨水に流れ、潰れてしまひ、
人の情けのかずかずも
竟に密柑の色のみだつた?……
歸郷
今日は好い天氣だ
椽の下では蜘蛛の巢が
心細さうに搖れてゐる
あゝ今日は好い天氣だ
路傍の草影が
あどけない愁みをする
その腕の優しくありぬ
朝の日は濡れてありぬ
水の音したたりてゐぬ
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年增婦の低い聲もする
吹き來る風が私に云ふ
凄じき黄昏
草は靡きぬ、我はみぬ、
遐き昔の隼人等を。
汀に沿ひて、つづきけり。
――雑魚の心を俟みつつ。
敷きある屍――
空、演壇に立ちあがる。
ニコチンに、汚れたる歯を押し匿す。
逝く夏の歌
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子を、
歩み來た旅人は周章てて見付けた。
金魚や娘の口の中を淸くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆蟲の淚を塗つてをいた。
私は甞て陥落した海のことを
その浪のことを語らうと思ふ。
下級官吏の赤靴のことや、
山沿ひの道を乗手もなく行く
自轉車のことを語らうと思ふ。
悲しき朝
春の光は、石のやうだ。
筧の水は、物語る
白髪の嫗にさも肖てる。
背ろに倒れ、歌つたよ、
心は涸れて皺枯れて、
嚴の上の、綱渡り。
夏の日の歌
雲片一つあるでない。
夏の眞晝の靜かには
タールの光も淸くなる。
いぢらしく思はせる何かがある、
焦げて圖太い向日葵が
田舎の驛には咲いてゐる。
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
山の近くを走る時。
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
夏の眞晝の暑い時。
夕照
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。
鄙唄うたひ
山に樹々、
老いてつましき心ばせ。
小兒に踏まれし
貝の肉。
さあれゆかしきあきらめよ
腕拱みながら歩み去る。
港市の秋
秋空は美しいかぎり。
むかふに見える港は、
蝸牛の角でもあるのか
甍は伸びをし
空は割れる。
役人の休み日――どてら姿だ。
海員が唄ふ。
『ぎーこたん、ばつたりしよ……』
狸婆々がうたふ。
大人しい發狂。
私はその日人生に、
椅子を失くした。
ためいき
河上徹太郎に
瘴気の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い學者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、魚を捕つてゐるやうだ。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピヨートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。
春の思ひ出
夕餉に歸る時刻となれば
立迷ふ春の暮靄の
土の上に叩きつけ
さりげなく手を拍きつつ
路の上を走りてくれば
(暮れのこる空よ!)
なごやかにうちまじりつつ
秋の日の夕陽の丘か炊煙か
われを暈めかすもののあり
カドリール ゆらゆるスカーツ
カドリール ゆらゆるスカーツ
何時の日か絶えんとはする カドリール!
秋の夜空
みんなてんでなことをいふ
それでもつれぬみやびさよ
いづれ揃つて夫人たち。
下界は秋の夜といふに
上天界のにぎはしさ。
金のカンテラ點いてゐる。
小さな頭、長い裳裾、
椅子は一つもないのです。
下界は秋の夜といふに
上天界のあかるさよ。
遐き昔の影祭、
しづかなしづかな賑はしさ
上天界の夜の宴。
私は下界で見てゐたが、
知らないあひだに退散した。
宿酔
風がある。
千の天使が
バスケツトボールする。
かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
白つぽく銹さびてゐる。
風がある。
千の天使が
バスケットボールする。
中原 中也 (著), 佐々木 幹郎 (編集)
A collection of poignant and beautiful words that invite endless rereading.
Chūya Nakahara’s classic poetry book, To the Stains of Life’s Sorrows…, unfolds verses that touch the depths of the heart.
Take a quiet moment to immerse yourself in the poet’s world.
Note: This edition is in Japanese.
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少年時
少年時
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
世の亡ぶ、兆のやうだつた。
おぼろで、灰色だつた。
田の面を過ぎる、昔の巨人の姿――
誰彼の午睡するとき、
私は野原を走つて行つた……
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫、生きてゐた、私は生きてゐた!
盲目の秋
無限の前に腕を振る。
それもやがては潰れてしまふ。
無限のまへに腕を振る。
酷白な嘆息するのも幾たびであらう……
その中を曼珠沙華と夕陽とがゆきすぎる。
去りゆく女が最後にくれる笑ひのやうに、
異様で、溫かで、きらめいて胸に殘る……
無限のまへに腕を振る。
そんなことはどうでもいいのだ。
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。
その餘はすべてなるまゝだ……
ただそれだけが人の行ひを罪としない。
朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!
とにかく私は血を吐いた! ……
おまへが情けをうけてくれないので、
とにかく私はまゐつてしまつた……
それといふのも私に意氣地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
おまへもわたしを愛してゐたのだが……
いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。
あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。
その時は白粧をつけてゐてはいや、
その時は白粧をつけてゐてはいや。
私の眼に輻射してゐて下さい。
何にも考へてくれてはいや、
たとへ私のために考へてくれるのでもいや。
あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土の徑を昇りゆく。
原文ではⅣは「IIII」
わが喫煙
夕暮、港の町の寒い夕暮、
によきによきと、ペエヴの上を歩むのだ。
店々に灯がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いてゐると、
おまへが聲をかけるのだ、
どつかにはひつて憩みませうよと。
レストオランに這入るのだ――
わんわんいふ喧騒、むつとするスチーム、
さても此処は別世界。
そこで私は、時宜にも合はないおまへの陽氣な顔を眺め、
かなしく煙草を吹かすのだ、
一服、一服、吹かすのだ……
妹よ
――かの女こそ正當なのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
もう死んだつていいよう……といふのであつた。
夜風は吹いて、
死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、
うつくしい魂は涕くのであつた。
――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……
寒い夜の自画像
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の憔懆のみの愁しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
聊かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諫める
寒月の下を往きながら。
わが魂の願ふことであつた!
Ⅱ・Ⅲは山羊の歌に収められず、ノートに書き留められただけである。
木蔭
楡の葉が小さく搖すれる
夏の晝の靑々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は
やがて淚つぽい晦暝となり
やがて根强い疲勞となつた
忍從することのほかに生活を持たない
怨みもなく喪心したやうに
空を見上げる私の眼――
楡の葉が小さく搖すれる
夏の晝の靑々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる
失せし希望
わが若き日を燃えし希望は。
遐きみ空に見え隱る、今もなほ。
わが若き日の夢は希望は。
獸の如くは、暗き思ひす。
晴れんとの知るよしなくて、
空の月、望むが如し。
その月はあまりに淸く、
今ははや暗き空へと消え行きぬ。
夏
今日の日も畑に陽は照り、麥に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。
終焉つてしまつたもののやうに
そこから繰れる一つの緒もないもののやうに
燃ゆる日の彼方に睡る。
血を吐くやうなせつなさかなしさ。
心象
踏む砂利の音は寂しかつた。
暖い風が私の額を洗ひ
思ひははるかに、なつかしかつた。
浪の音がひときは聞えた。
星はなく
空は暗い綿だつた。
船頭がその女房に向つて何かを云つた。
――その言葉は、聞きとれなかつた。
淚湧く。
城の塀乾きたり
風の吹く
丘を越え、野を渉り
憩ひなき
白き天使のみえ來ずや
あはれわれ生きむと欲す
あはれわれ、亡びたる過去のすべてに
み空の方より、
風の吹く
みちこ
みちこ
おほらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あをき浪、
涼しかぜさへ吹きそひて
松の梢をわたりつつ
磯白々とつづきけり。
いやはてまでもうつしゐて
竝びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろひぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆
沖ゆく舟にみとれたる。
ふと物音におどろきて
午睡の夢をさまされし
牡牛のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯しぬ。
ちからなき、嬰児ごとき腕して
絃うたあはせはやきふし、なれの踊れば、
海原はなみだぐましき金にして夕陽をたたへ
沖つ瀬は、いよとほく、かしこしづかにうるほへる
空になん、汝の息絶ゆるとわれはながめぬ。
汚れつちまつた悲しみに……
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
いたいたしくも怖氣づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
無題
私は强情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覺めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正體もなく、今茲に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に驅られて、狂ひ𢌞る。
人の氣持ちをみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我儘だつた!
目が覺めて、宿醉の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい氣配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、亂雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより眞つ直いそしてぐらつかない。
彼女は賢くつつましく生きてゐる。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、
而もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獸や子供にしか、
彼女は出遇はなかつた。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。
惡醉の、狂ひ心地に美を索む
わが世のさまのかなしさや、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。
いとほしい、なごやかに澄んだ氣持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に盡さうと思ふよ。
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。
いかなることとも知らないで、私は
おまへに盡せるんだから幸福だ!
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。
せめてめまぐるしいものや
數々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意氣銷沈して、怒りやすく、
人に嫌はれて、自らも悲しい。
從ひて、迎へられんとには非ず、
從ふことのみ学びとなるべく、學びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!
原文ではⅣは「IIII」
更くる夜
内海誓一郎に
水汲む音がきこえます。
流された殘り湯が湯氣となつて立ち、
昔ながらの真つ黑い武藏野の夜です。
おつとり霧も立罩めて
その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠がします。
あえかな夢をみますのは。
随分……今では損はれてはゐるものの
今でもやさしい心があつて、
こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、
感謝にみちて聽きいるのです、
感謝にみちて聽きいるのです。
つみびとの歌
阿部六郎に
あまりに夙く、手を入れられた悲しさよ!
由來わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾り泡だつ。
つねに外界に索めんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い。
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、
人にむかつては心弱く、諂ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出來してしまふ。
秋
秋
今日茫然として、曇つた空の下につづく。
一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ
秋蟬は、もはやかしこに鳴いてゐる、
草の中の、ひともとの木の中に。
澱んだ空氣の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎の亡霊達が起つたり坐つたりしてゐるので、
――僕は蹲んでしまふ。
とても高いので、僕は俯いてしまふ。
僕は倦怠を觀念して生きてゐるのだよ、
煙草の味が三通りくらゐにする。
死ももう、とほくはないのかもしれない……
みように真鍮の光沢かなんぞのやうな笑を湛へて彼奴は、
あのドアの所を立ち去つたのだつたあね。
あの笑ひがどうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。
彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。
話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。
短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。
つまらない事を、細かく覺えていたりしたあね。』
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達よ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』
その上を蝶々がとんでゐたのよ。
浴衣を着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。
あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々で聞えてゐたわ、
あの電信柱が、夕空にクツキリしてて、
――僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、
昨日三十貫くらゐある石をコヂ起しちやつた、つてのよ。
――まあどうして、どこで?つてあたし訊いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジツとみるのよ、
怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。
修羅街輓歌
関口隆克に
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!
椽側には陽が當る。
――もういつぺん母親に連れられて
祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
空は靑く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……
去れ!
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の靑春も過ぎた。
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気氣な戰士、私の心よ!
對外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。
もはや工夫を凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。
雨蕭々と降り洒ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。
いはれもなくて拳する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。
原文ではⅣは「IIII」
雪の宵
過ぎしその手か囁きか 白秋
過ぎしその手か、囁きか
赤い火の粉も刎ね上る。
暗い空から降る雪は……
いまごろどうしてゐるのやら。
いまに歸つてくるのやら
悔と悔とに身もそぞろ。
いとしおもひにそそらるる……
過ぎしその手か、囁きか
赤い火の粉も刎ね上る。
生ひ立ちの歌
眞綿のやうでありました
霙のやうでありました
霰のやうに散りました
雹であるかと思はれた
ひどい吹雪とみえました
いとしめやかになりました……
花びらのやうに降つてきます
薪の燃える音もして
凍るみ空の黝む頃
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました
熱い額に落ちもくる
淚のやうでありました
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました
いと貞潔でありました
時こそ今は……
ボードレール
そこはかとないけはひです。
しほだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。
暮るる籬や群靑の
空もしづかに流るころ。
おまへの髪毛なよぶころ
花は香爐に打薫じ、
羊の歌
羊の歌
安原喜弘に
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は來たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
わが裡より去れよかし!
われはや單純と靜けき呟きと、
とまれ、淸楚のほかを希はず。
更めてわれを目覺ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は旣に無用の有に似たり。
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいへ。 ボードレール
女の子供でありました
世界の空氣が、彼女の有であるやうに
またそれは、凭つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。
彼女は疊に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天氣の午前
私の室には、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶 陽に透きました。
かの女の心は密柑の色に
そのやさしさは氾濫するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟讀翫味しました。
夜な夜なは、下宿の室に独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 單調の
つまし心の連彈よ……
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……
閉ざされて、醺生ゆる手匣にこそはさも似たれ
しらけたる脣、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫にほとぶなり……
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる淚は、人戀ふる淚のそれにもはやあらず……
原文ではⅣは「IIII」
憔悴
Il faut d’abord avoir soif…… ––Cathérine de Médicis.
起きれば愁はしい 平常のおもひ
私は、惡い意志をもつてゆめみた……
(私は其処に安住したのでもないが、
其處を拔け出すことも叶はなかつた)
そして、夜が來ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其處を、やつれた顏の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面を、にらめながらに過ぎてゆく
戀愛詩なぞ愚劣なものだと
甲斐あることに思ふのだ
戀愛詩よりもましな詩境にはいりたい
とにかくさういふ心が殘つてをり
とんだ希望を起させる
戀愛詩なぞ愚劣なものだと
ゆめみるほかに能がない
どうして私に知れようものか
今日も日が照る 空は靑いよ
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
容易に人間に分りはせぬ
あれをもこれをも支配してゐるのだ
つぐむでゐれば愉しいだけだ
空も 川も みんなみんな
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……
どうすれば哂はれないですむだらうか、とかと
明けくれすぐす、世の人々よ、
一生懸命郷に従つてもみたのだが
ひつぱつたゴムを手離したやうに
扇のかたちに食指をひろげ
蛙さながら水に泛んで
あゝ 空の奥、空の奥。
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から拔けぬことはたしかなのです。
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!
原文ではⅣは「IIII」
いのちの声
――ソロモン
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
僕は雨上りの曇つた空の下の鐵橋のやうに生きてゐる。
僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。
僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔れてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆分つたためしはない。
それは女か? 甘いものか? それは榮譽か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出來ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!
勝敗に心覺き程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!
かの慧敏なる商人の、稱して阿呆といふでもあらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ。
其處に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因て我等自身も構成されたる原理であれば、
然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!
汝が最後なる目標の前にであれ、
この言ゆめゆめおろそかにする勿れ。
その社会社會的効果は存続し、
汝が次なる行為への轉調の障げとなるなれば。
原文ではⅣは「IIII」
Goat Songs (Yagi no Uta) is a poetry collection by Nakahara Chūya, published in 1934 (Shōwa 9). It was the only poetry collection released during his lifetime, published when Chūya was 27 years old. The book’s design was created by Takamura Kōtarō.
The contents are broadly divided into five sections: “Early Poems,” “Boyhood,” “Michiko,” “Autumn,” and “Sheep Songs.”
Except for the three poems in “Sheep Songs” and four poems included in other sections, the works were originally published between 1929 and 1930 in literary magazines such as Hakuchigun (“The Idiot Group”).

