Yagi no Uta

山羊の歌

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穩かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は靜かです
吁! 案山子はないか――あるまい
いななくか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
從順なのは 春の日の夕暮か
ポトホトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが
瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
みづからの靜脈管の中へです
今宵月はいよいよ愁しく、
養父の疑惑に瞳をみはる。
秒刻ときは銀波を砂漠に流し
老男らうなんの耳朶は螢光をともす。
あゝ忘られた運河の岸堤
胸に殘つた戰車の地音
銹びつく鑵の煙草とりいで
月は懶く喫つてゐる。
それのめぐりを七人の天女は
趾頭舞踊しつづけてゐるが、
汚辱に浸る月の心に
なんの慰愛もあたへはしない。
をちにちらばる星と星よ!
おまへの劊手を月は待つてゐる
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処での()()()
今夜此処での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋やねのもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が
安値やすいリボンと息を吐き
觀客様はみな鰯
咽喉のんどが鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外やがいは眞ッくら くらくら
夜は劫々と更けまする
落下傘奴らくかがさめのノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

Circus

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燻銀(いぶしぎん)なる窓枠の中になごやかに
一枝の花、桃色の花。
月光うけて失神し
(には)土面(つちも)附黑子(つけぼくろ)
あゝこともなしこともなし
樹々よはにかみ立ちまはれ。
このすゞろなる物の()
希望はあらず、さてはまた、懴悔もあらず。
山虔しき木工のみ、
夢の(うち)なる隊商のその足竝もほのみゆれ。
窓の(うち)にはさはやかの、おぼろかの
砂の色せる絹(ごろも)
かびろき胸のピアノ鳴り
祖先はあらず、親も()ぬ。
埋みし犬の何處(いづく)にか、
蕃紅花(さふらん)(いろ)に湧きいづる
春の夜や。
天井に (あか)きろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍樂の憶ひ
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諌めする なにものもなし。
樹脂(じゆし)の香に 朝は惱まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかな
ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
秋空は鈍色(にびいろ)にして
黑馬の瞳のひかり
水涸れて落つる百合花
あゝ こころうつろなるかな
神もなくしるべもなくて
窓近く(をみな)の逝きぬ
白き空盲ひてありて
白き風冷たくありぬ
窓際に髪を洗へば
その腕の優しくありぬ
朝の日は濡れてありぬ
水の音したたりてゐぬ
町々はさやぎてありぬ
子等の聲もつれてありぬ
しかはあれ この魂はいかにとなるか?
うすらぎて 空となるか?
月は空にメダルのやうに、
まちかどに建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱ひながらに歸つてゆく。
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――
その脣はひらききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になつて、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。
商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都會の夏のよるふけ――
死んだ火藥と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

Urban Summer Night

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こんな朝、遲く目覺める人達は
戸にあたる風と轍との音によつて、
サイレンの棲む海に溺れる。
夏の夜の露店の會話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩のかなたの地平の目の色。
今朝はすべてが領事館旗のもとに從順で、
秋は錫と廣場と天鼓のほかのなんにも知らない。
軟體動物のしやがれ聲にも氣をとめないで、
紫の蹲んだ影して公園で、乳兒は口に砂を入れる。
(水色のプラットホームと
躁ぐ少女と嘲笑あざわらふヤンキイは
いやだ いやだ!)
ぽけっとに手を突込んで
路次を拔け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑きれくづをでも探して來よう。
澁つた仄暗い池のおもて
寄り合つた蓮の葉が搖れる。
蓮の葉は、圖太いので
こそこそとしか音をたてない。
音をたてると私の心が搖れる、
目が薄明るい地平線を逐ふ……
黑々と山がのぞきかかるばつかりだ
――失はれたものはかへつて來ない。
なにが悲しいたつてこれほど悲しいことはない
草の根の匂ひが靜かに鼻にくる、
畑の土が石といつしよに私を見てゐる。
――竟に私は耕やさうとは思はない!
ぢいつと茫然ぼんやり黄昏の中に立つて、
なんだか父親の映像が氣になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑ぜない女の兒の泣聲だ、
鞄屋の女房の(ゆふべ)の鼻汁だ。
林の黄昏は
擦れた母親。
虫の飛交ふ梢のあたり、
舐子(おしやぶり)のお道化た踊り。
波うつ毛の獵犬見えなく、
獵師は猫背を向ふに運ぶ。
森を控へた草地が
坂になる!
黑き濱邊にマルガレエテが歩み寄する
ヴェールを風に千々にされながら。
彼女の(しし)は跳び込まねばならぬ、
いかしき神の父なる海に!
崖の上の彼女の上に
精靈が怪しげなるすじを描く。
彼女の思ひ出は悲しい書齋の取片附け
彼女は直きに死なねばならぬ。
冬の黑い夜をこめて
どしやぶりの雨が降つてゐた。
――夕明下ゆふあかりかに投げいだされた、萎れ大根だいこの陰惨さ、
あれはまだしも結構だつた――
今や黑い冬の夜をこめ
どしやぶりの雨が降つてゐる。
亡き乙女達の聲さへがして
aé ao, aé ao, éo, aéo éo!
その雨の中を漂ひながら
いつだか消えてなくなつた、あの乳白の脬嚢たち……
今や黑い冬の夜をこめ
どしやぶりの雨が降つてゐて、
わが母上の帶締めも
雨水うすゐに流れ、潰れてしまひ、
人の情けのかずかずも
竟に密柑の色のみだつた?……
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天氣だ
椽の下では蜘蛛の巢が
心細さうに搖れてゐる
山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天氣だ
ばたの草影が
あどけない愁みをする
窓際に髪を洗へば
その腕の優しくありぬ
朝の日は濡れてありぬ
水の音したたりてゐぬ
これが私の故里ふるさと
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年增婦としまの低い聲もする
あゝ おまへはなにをして來たのだと……
吹き來る風が私に云ふ
巻き起る、風も物憂き頃ながら、
草は靡きぬ、我はみぬ、
遐き昔の隼人等を。
銀紙ぎんがみ色の竹槍の、
汀に沿ひて、つづきけり。
――雑魚ざこの心を俟みつつ。
吹く風誘はず、地の上の
敷きあるかばね――
空、演壇に立ちあがる。
家々は、賢き陪臣
ニコチンに、汚れたる歯を押し匿す。
並木の梢が深く息を吸つて、
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子を、
歩み來た旅人は周章てて見付けた。
山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口の中を淸くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆蟲の淚を塗つてをいた。
風はリボンを空に送り、
私は甞て陥落した海のことを
その浪のことを語らうと思ふ。
騎兵聯隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿ひの道を乗手もなく行く
自轉車のことを語らうと思ふ。
河瀬の音が山に來る、
春の光は、石のやうだ。
かけひの水は、物語る
白髪のをうなにさも肖てる。
雲母の口して歌つたよ、
うしろに倒れ、歌つたよ、
心は涸れて皺枯れて、
いはほの上の、綱渡り。
知れざる炎、空にゆき!
響の雨は、濡れ冠る!
……………………
われかにかくに手を拍く
靑い空は動かない、
ぎれ一つあるでない。
夏の眞晝の靜かには
タールの光も淸くなる。
夏の空には何かがある、
いぢらしく思はせる何かがある、
焦げて圖太い向日葵ひまはり
田舎の驛には咲いてゐる。
上手に子供を育てゆく、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
山の近くを走る時。
山の近くを走りながら、
母親に似て汽車の汽笛は鳴る。
夏の眞晝の暑い時。
丘々は、胸に手を當て
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。
原に草、
鄙唄うたひ
山に樹々、
老いてつましき心ばせ。
かゝる折しも我ありぬ
小兒に踏まれし
貝の肉。
かゝるをりしも剛直の
さあれゆかしきあきらめよ
腕拱みながら歩み去る。
石崖に、朝陽が射して
秋空は美しいかぎり。
むかふに見える港は、
蝸牛の角でもあるのか
町では人々煙管きせるの掃除。
甍は伸びをし
空は割れる。
役人の休み日――どてら姿だ。
『今度生れたら……』
海員が唄ふ。
『ぎーこたん、ばつたりしよ……』
狸婆々がうたふ。
みなとまちの秋の日は、
大人しい發狂。
私はその日人生に、
椅子を失くした。
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気の中で瞬きをするであらう。
その瞬きは怨めしさうにながれながら、パチンと音をたてるだらう。
木々が若い學者仲間の、頸すぢのやうであるだらう。
夜が明けたら地平線に、窓がくだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。
ためいきはなほ深くして、
丘に響きあたる荷車の音のやうであるだらう。
野原に突出た山ノ端の松が、私を看守つてゐるだらう。
それはあつさりしてても笑はない、叔父さんのやうであるだらう。
神様が気層の底の、さかなを捕つてゐるやうだ。
空が曇つたら、蝗螽いなごの瞳が、砂土の中に覗くだらう。
遠くに町が、石灰みたいだ。
ピヨートル大帝の目玉が、雲の中で光つてゐる。
摘み溜めしれんげの華を
夕餉に歸る時刻となれば
立迷ふ春の暮靄ぼあい
土のに叩きつけ
いまひとたびは未練で眺め
さりげなく手を拍きつつ
路のを走りてくれば
(暮れのこる空よ!)
わが家へと入りてみれば
なごやかにうちまじりつつ
秋の日の夕陽の丘か炊煙か
われをくるめかすもののあり
古き代の富みしやかた
カドリール ゆらゆるスカーツ
カドリール ゆらゆるスカーツ
何時の日か絶えんとはする カドリール!
これはまあ、おにぎはしい、
みんなてんでなことをいふ
それでもつれぬみやびさよ
いづれ揃つて夫人たち。
下界は秋の夜といふに
上天界のにぎはしさ。
すべすべしてゐるゆかの上、
金のカンテラ點いてゐる。
小さな頭、長い裳裾すそ
椅子は一つもないのです。
下界は秋の夜といふに
上天界のあかるさよ。
ほんのりあかるい上天界
遐き昔の影祭、
しづかなしづかな賑はしさ
上天界のよるの宴。
私は下界で見てゐたが、
知らないあひだに退散した。
朝、鈍い日が照つてて
風がある。
千の天使が
バスケツトボールする。
私は目をつむる、
かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
白つぽく銹さびてゐる。
朝、鈍い日が照つてて
風がある。
千の天使が
バスケットボールする。

汚れつちまつた悲しみに…… 中原中也詩集 (角川文庫)

中原 中也 (著), 佐々木 幹郎 (編集)

A collection of poignant and beautiful words that invite endless rereading.
Chūya Nakahara’s classic poetry book, To the Stains of Life’s Sorrows…, unfolds verses that touch the depths of the heart.
Take a quiet moment to immerse yourself in the poet’s world.

Note: This edition is in Japanese.

Available on Amazon.co.jp
https://amzn.to/3H2cGVP

あをぐろい石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、きざしのやうだつた。
麥田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
翔びゆく雲の落とす影のやうに、
田のを過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日のひる過ぎ時刻
誰彼の午睡ひるねするとき、
私は野原を走つて行つた……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた……
噫、生きてゐた、私は生きてゐた!
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限の前に腕を振る。
そのかん、小さなくれないの花が見えはするが、
それもやがては潰れてしまふ。
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまへに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思つて
酷白な嘆息するのも幾たびであらう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
その中を曼珠沙華ひがんばなと夕陽とがゆきすぎる。
それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛え、
去りゆく女が最後にくれるゑまひのやうに、
おごそかで、ゆたかで、それでゐて佗しく
異様で、溫かで、きらめいて胸に殘る……
あゝ、胸に殘る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
無限のまへに腕を振る。
これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。
人には自恃があればよい!
その餘はすべてなるまゝだ……
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。
平氣で、陽氣で、藁束のやうにしむみりと、
朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!
私の聖母サンタ・マリヤ
とにかく私は血を吐いた! ……
おまへが情けをうけてくれないので、
とにかく私はまゐつてしまつた……
それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、
それといふのも私に意氣地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
おまへもわたしを愛してゐたのだが……
おゝ! 私の聖母サンタ・マリヤ
いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸をひらいてくれるでせうか。
その時は白粧をつけてゐてはいや、
その時は白粧をつけてゐてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
何にも考へてくれてはいや、
たとへ私のために考へてくれるのでもいや。
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土よみぢの徑を昇りゆく。
おまへのその、白い二本のあしが、
夕暮、港の町の寒い夕暮、
によきによきと、ペエヴの上を歩むのだ。
店々に灯がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いてゐると、
おまへが聲をかけるのだ、
どつかにはひつて憩みませうよと。
そこで私は、橋や荷足にたりを見残しながら、
レストオランに這入るのだ――
わんわんいふ喧騒どよもし、むつとするスチーム、
さても此処は別世界。
そこで私は、時宜にも合はないおまへの陽氣な顔を眺め、
かなしく煙草を吹かすのだ、
一服、一服、吹かすのだ……
夜、うつくしい魂は涕いて、
――かの女こそ正當あたりきなのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
もう死んだつていいよう……といふのであつた。
濕つた野原の黒い土、短い草の上を
夜風は吹いて、 
死んだつていいよう、死んだつていいよう、と、
うつくしい魂は涕くのであつた。
夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかつた……
きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の憔懆のみの愁しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
蹌踉めくままに静もりを保ち、
聊かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諫める
寒月の下を往きながら。
陽氣で、坦々として、而も己を賣らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく搖すれる
夏の晝の靑々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる
暗い後悔 いつでも附纏ふ後悔
馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は
やがて淚つぽい晦暝となり
やがて根强い疲勞となつた
かくて今では朝から夜まで
忍從することのほかに生活を持たない
怨みもなく喪心したやうに
空を見上げる私のまなこ――
神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく搖すれる
夏の晝の靑々した木蔭は
私の後悔を宥めてくれる
暗き空へと消え行きぬ
わが若き日を燃えし希望は。
夏の夜の星の如くは今もなほ
遐きみ空に見え隱る、今もなほ。
暗き空へと消えゆきぬ
わが若き日の夢は希望は。
今はた此處に打伏して
獸の如くは、暗き思ひす。
そが暗き思ひいつの日
晴れんとの知るよしなくて、
溺れたるよるの海より
空の月、望むが如し。
その浪はあまりに深く
その月はあまりに淸く、
あはれわが若き日を燃えし希望の
今ははや暗き空へと消え行きぬ。
血を吐くやうな ものうさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麥に陽は照り
睡るがやうな悲しさに、み空をとほく
血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ
空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光り
今日の日も陽は炎ゆる、地は睡る
血を吐くやうなせつなさに。
嵐のやうな心の歴史は
終焉をはつてしまつたもののやうに
そこからたぐれる一つのいとぐちもないもののやうに
燃ゆる日の彼方に睡る。
私は残る、亡骸なきがらとして――
血を吐くやうなせつなさかなしさ。
松の木に風が吹き、
踏む砂利の音は寂しかつた。
暖い風が私の額を洗ひ
思ひははるかに、なつかしかつた。
腰をおろすと、
浪の音がひときは聞えた。
星はなく
空は暗い綿だつた。
とほりかかつた小舟の中で
船頭がその女房に向つて何かを云つた。
――その言葉は、聞きとれなかつた。
浪の音がひときはきこえた。
亡びたる過去のすべてに
淚湧く。
城の塀乾きたり
風の吹く
草靡く
丘を越え、野を渉り
憩ひなき
白き天使のみえ來ずや
あはれわれ死なんと欲す、
あはれわれ生きむと欲す
あはれわれ、亡びたる過去のすべてに
淚湧く。
み空の方より、
風の吹く
そなたの胸は海のやう
おほらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あをき浪、
涼しかぜさへ吹きそひて
松の梢をわたりつつ
磯白々とつづきけり。
またなが目にはかの空の
いやはてまでもうつしゐて
竝びくるなみ、渚なみ、
いとすみやかにうつろひぬ。
みるとしもなく、ま帆片帆
沖ゆく舟にみとれたる。
またそのぬかのうつくしさ
ふと物音におどろきて
午睡の夢をさまされし
牡牛のごとも、あどけなく
かろやかにまたしとやかに
もたげられ、さてうち俯しぬ。
しどけなき、なれがうなじは虹にして
ちからなき、嬰児みどりごごときかひなして
いとうたあはせはやきふし、なれの踊れば、
海原はなみだぐましききんにして夕陽をたたへ
沖つ瀬は、いよとほく、かしこしづかにうるほへる
空になん、の息絶ゆるとわれはながめぬ。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘かはごろも
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠けだいのうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖氣づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は强情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覺めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正體もなく、今茲に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に驅られて、狂ひ𢌞る。
人の氣持ちをみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑なで、子供のやうに我儘だつた!
目が覺めて、宿醉の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい氣配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、ら信ずる!
彼女の心は眞つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、亂雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより眞つ直いそしてぐらつかない。
彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きてゐる。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁ぎはするが、
而もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!
甞て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獸や子供にしか、
彼女は出遇はなかつた。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。
かたくなにしてあるときは、心にまなこ
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなはれしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。
おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
惡醉の、狂ひ心地に美をもと
わが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人にまさらん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。
私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ氣持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。
私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に盡さうと思ふよ。
またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまへに盡せるんだから幸福だ!
Ⅴ 幸福
幸福は厩の中にゐる
藁の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。
頑なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
數々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。
幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。
頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意氣銷沈して、怒りやすく、
人に嫌はれて、自らも悲しい。
されば人よ、つねにまづ從はんとせよ。
從ひて、迎へられんとには非ず、
從ふことのみ学びとなるべく、學びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!
毎晩々々、夜が更けると、近所の湯屋の
水汲む音がきこえます。
流された殘り湯が湯氣となつて立ち、
昔ながらの真つ黑い武藏野の夜です。
おつとり霧も立罩めて
その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠がします。
その頃です、僕が圍爐裏の前で、
あえかな夢をみますのは。
随分……今では損はれてはゐるものの
今でもやさしい心があつて、
こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、
感謝にみちて聽きいるのです、
感謝にみちて聽きいるのです。
わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙く、手を入れられた悲しさよ!
由來わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、たぎり泡だつ。
おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界にもとめんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い。
かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、
懶懦にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出來してしまふ。
昨日まで燃えてゐた野が
今日茫然として、曇つた空の下につづく。
一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ
秋蟬は、もはやかしこに鳴いてゐる、
草の中の、ひともとの木の中に。
僕は煙草を喫ふ。その煙が
澱んだ空氣の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎の亡霊達が起つたり坐つたりしてゐるので、
――僕は蹲んでしまふ。
鈍い金色を帯びて、空は曇つてゐる、――相變らずだ、――
とても高いので、僕は俯いてしまふ。
僕は倦怠を觀念して生きてゐるのだよ、
煙草の味が三通りくらゐにする。
死ももう、とほくはないのかもしれない……
『それではさよならといつて、
みように真鍮の光沢かなんぞのやうなゑみを湛へて彼奴は、
あのドアの所を立ち去つたのだつたあね。
あの笑ひがどうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。
彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。
話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。
短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。
つまらない事を、細かく覺えていたりしたあね。』
『ええさうよ。――死ぬつてことが分かつてゐたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達よ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』
草がちつともゆれなかつたのよ、
その上を蝶々がとんでゐたのよ。
浴衣ゆかたを着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。
あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々で聞えてゐたわ、
あの電信柱が、夕空にクツキリしてて、
――僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、
昨日三十貫くらゐある石をコヂ起しちやつた、つてのよ。
――まあどうして、どこで?つてあたし訊いたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジツとみるのよ、
怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。
死ぬまへつてへんなものねえ……

関口隆克に

序歌
忌はしい憶ひ出よ、
去れ! そしてむかしの
憐みの感情と
ゆたかな心よ、
返つて来い!
今日は日曜日
椽側には陽が當る。
――もういつぺん母親に連れられて
祭の日には風船玉が買つてもらひたい、
空は靑く、すべてのものはまぶしくかゞやかしかつた……
忌はしい憶ひ出よ、
去れ!
去れ去れ!
Ⅱ 醉生
私の靑春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
私の靑春も過ぎた。
ほんに前後もみないで生きて來た……
私はあむまり陽気にすぎた?
――無邪気氣な戰士、私の心よ!
それにしても私は憎む、
對外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。
いま茲に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おゝ、霜にしみらの鶏鳴よ……
Ⅲ 獨語
器の中の水が搖れないやうに、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
さうでさへあるならば
モーションは大きい程いい。
しかしさうするために、
もはや工夫くふうを凝らす余地もないなら……
心よ、
謙抑にして神恵を待てよ。
いといと淡き今日の日は
雨蕭々と降り洒ぎ
水よりあはき空気にて
林の香りすなりけり。
げに秋深き今日の日は
石の響きの如くなり。
思ひ出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。
まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。
それよかなしきわが心
いはれもなくてこぶしする
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。
青いソフトに降る雪は
過ぎしその手か囁きか  白秋
ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
ふかふか煙突けむ吐いて、
赤い火の粉も刎ね上る。
今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……
ほんに別れたあのをんな、
いまごろどうしてゐるのやら。
ほんにわかれたあのをんな、
いまに歸つてくるのやら
徐かに私は酒のんで
悔と悔とに身もそぞろ。
しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……
ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
ふかふか煙突けむ吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。
幼年時
私の上に降る雪は
眞綿のやうでありました
少年時
私の上に降る雪は
霙のやうでありました
十七―十九
私の上に降る雪は
霰のやうに散りました
二十―二十二
私の上に降る雪は
雹であるかと思はれた
二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました
二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……
私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪の燃える音もして
凍るみ空の黝む頃
私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて降りました
私の上に降る雪は
熱い額に落ちもくる
淚のやうでありました
私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生したいと祈りました
私の上に降る雪は
いと貞潔でありました
時こそ今は花は香爐に打薫じ
ボードレール
時こそ今は花は香爐に打薫じ、
そこはかとないけはひです。
しほだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。
いかに泰子、今こそは
しづかに一緒に、をりませう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。
いかに泰子、いまこそは
暮るるまがき群靑ぐんじょう
空もしづかに流るころ。
いかに泰子、今こそは
おまへの髪毛かみげなよぶころ
花は香爐に打薫じ、
Ⅰ 祈り
死の時には私が仰向かんことを!
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は來たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!
思惑よ、汝 古く暗き氣體よ、
わが裡より去れよかし!
われはや單純と靜けき呟きと、
とまれ、淸楚のほかを希はず。
交際よ、汝陰鬱なる汚濁の許容よ、
更めてわれを目覺ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は旣に無用のものに似たり。
汝、疑ひとともに見開くまなこ
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、
それよ思惑、汝 古く暗き空氣よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず
我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
其処此処に時々陽の光も落ちたとはいへ。 ボードレール
九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空氣が、彼女のゆうであるやうに
またそれは、凭つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。
私は炬燵にあたつてゐました
彼女は疊に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天氣の午前
私のへやには、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶みみのは 陽に透きました。
私を信賴しきつて、安心しきつて
かの女の心は密柑の色に
そのやさしさは氾濫するなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟讀翫味しました。
さるにても、もろに佗しいわが心
夜な夜なは、下宿のへやに独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 單調の
つまし心の連彈よ……
汽車の笛聞こゑもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……
思ひなき、おもひを思ふわが胸は
閉ざされて、かびゆる手匣にこそはさも似たれ
しらけたるくち、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫しじまにほとぶなり……
これやこの、慣れしばかりに耐へもする
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる淚は、人戀ふる淚のそれにもはやあらず……
Pour tout homme, il vient une époque où l’homme languit. –Proverbe.
Il faut d’abord avoir soif…… ––Cathérine de Médicis.
私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きればうれはしい 平常いつものおもひ
私は、惡い意志をもつてゆめみた……
(私は其処に安住したのでもないが、
其處を拔け出すことも叶はなかつた)
そして、夜が來ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其處を、やつれた顏の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水のおもてを、にらめながらに過ぎてゆく
昔 私は思つてゐたものだつた
戀愛詩なぞ愚劣なものだと
今私は戀愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ
だがまだ今でもともすると
戀愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が殘つてをり
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる
昔私は思つてゐたものだつた
戀愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは戀愛を
ゆめみるほかに能がない
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は靑いよ
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
眞面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ
あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
しかし此の世の善だの惡だの
容易に人間に分りはせぬ
人間に分らない無數の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ
山蔭の淸水しみづのやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉しいだけだ
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
やがては全體の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすればわらはれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命がうに従つてもみたのだが
今日また自分に歸るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに
さうしてこの怠惰の窗の中から
扇のかたちに食指をひろげ
靑空を喫ふ ひまを嚥む
蛙さながら水に泛んで
よるよるとて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。
しかし またかうした僕の狀態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。
そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑をくずが一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から拔けぬことはたしかなのです。
と、聞えてくる音樂には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!
もろもろのわざ、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
――ソロモン
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
僕は雨上りの曇つた空の下の鐵橋のやうに生きてゐる。
僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。
僕はその寂漠の中にすつかり沈靜してゐるわけでもない。
僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしくれてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。
しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆分つたためしはない。
時に自分を揶揄ふやうに、僕は自分に訊いてみるのだ。
それは女か? うまいものか? それは榮譽か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?
否何れとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出來ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!
人は皆、知ると知らぬに拘らず、そのことを希望してをり、
勝敗に心さとき程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!
併し幸福といふものが、このやうに無私のさかひのものであり、
かの慧敏なる商人の、稱して阿呆あほうといふでもあらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身の世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ。
だが、それが此の世といふものなんで、
其處に我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それに因て我等自身も構成されたる原理であれば、
然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。
されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!
さあれ、怒ることこそ
が最後なる目標の前にであれ、
このことゆめゆめおろそかにする勿れ。
そは、熱情はひととき持續し、やがて熄むなるに、
その社会社會的効果は存続し、
が次なる行為への轉調の障げとなるなれば。
ゆふがた、空の下で、身一點に感じられれば、萬事に於て文句はないのだ。

Goat Songs (Yagi no Uta) is a poetry collection by Nakahara Chūya, published in 1934 (Shōwa 9). It was the only poetry collection released during his lifetime, published when Chūya was 27 years old. The book’s design was created by Takamura Kōtarō.
The contents are broadly divided into five sections: “Early Poems,” “Boyhood,” “Michiko,” “Autumn,” and “Sheep Songs.”
Except for the three poems in “Sheep Songs” and four poems included in other sections, the works were originally published between 1929 and 1930 in literary magazines such as Hakuchigun (“The Idiot Group”).

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